聖徳太子とは
聖徳太子は、西暦574年2月7日に、現在の奈良県明日香村で誕生しました。
「聖徳太子」という名は、後世の諡号であり、本名は「厩戸皇子(うまやどのみこ)」だったとも言われています。
皇族として生を受けた聖徳太子は、年若いころから非常に英明であり、592年に即位した我が国初の女帝である推古天皇の摂政となり、日本の政治の中枢として活躍しました。 特に、個人の才能によって役人の位を授ける「冠位十二階」、わが国最初成文法といわれる「十七条憲法」の制定や、遣隋使の派遣をおこなったことで、よく知られています。
また、伝来してきたばかりの仏教を篤く信仰し、仏教興隆の象徴となりました。
※諸説あります
聖徳太子の生涯
第31代用明天皇と穴穂部間人皇女の第一皇子として、生まれる。
蘇我馬子の物部氏討伐の戦いに加わる。この時、一度は劣勢になり信貴山に逃げ込み、四天王に戦勝祈願を行う。
第33代推古天皇(太子の叔母にあたる)が即位し、その摂政になる。
推古天皇により「仏教興隆の詔」が発せられる。
斑鳩宮を造営する。
「冠位十二階」を定める。
「十七条憲法」を制定する。
斑鳩宮へ移る。
小野妹子を遣隋使として送る。法隆寺を建立する。
『三経義疏』(勝鬘経・維摩経・法華経の解説書)をつくる。
蘇我馬子と協力し「天皇記」「国記」等を編纂する。
葦垣宮で亡くなる。
仏師・鞍作止利が「釈迦三尊像」をつくる。
斑鳩宮が蘇我入鹿に襲撃され、息子の山背大兄王ほか上宮王家が滅びる。
乙巳の変がおこる(大化の改新の端緒となる)。
※諸説あります
その後、功績を讃え「聖徳太子」と呼ばれるようになる。
聖徳太子信仰の広がり
聖徳太子が薨去された後も、日本における仏法の開祖として、仏教の開祖の釈迦になぞらえられてきました。また、末法思想を背景に、平安時代に急速に太子信仰が広まっていき、太子を観音菩薩の化身とする信仰が生まれました。そして、その頃編まれた伝記に基づき、絵画「聖徳太子絵伝」や太子像(二歳像・孝養像など)が、各地で製作されました。


聖徳太子びっくりエピソード

愛馬の黒駒とともに富士山の頂上に駆け上がった
一度に10人以上の話を聞き分けた


2歳の時に、東方を向いて「南無仏」と拝んだ
3歳の時に、父・用明天皇よりの問いにしっかりと返答した。

聖徳太子と斑鳩の里
605年、聖徳太子は斑鳩宮に移り住み、続いて607年には、法隆寺を建立しました。
当時、都があった飛鳥を離れ、斑鳩の地を選んだ背景には、外交戦略を重視していた太子が、遠洋航路の拠点となる難波津に出やすい、雄大な大和川の水運を利用できるこの地を選んだのではないかとも言われています。
そして太子は、南西に斜めに連なる「太子道(筋違道)」を、舎人の調子丸とともに、愛馬の黒駒に乗って、斑鳩から都のある飛鳥まで通ったとも言われています。
このように、推古天皇の摂政として大活躍していた壮年期から薨去されるまで、太子が住まわれた斑鳩の里には、太子の痕跡が数多く残っています。
太子の面影を偲びながら、斑鳩の里をごゆるりと巡ってみてください。



